精神主義

I 雑誌『精神界』所収論文
一 精神主義

 

 吾人の世に在るや、必ず一の完全なる立脚地なかるへからす。若し之なくして、世に処し、事を為さむとするは、恰も浮雲の上に立ちて技芸を演せむとするものゝ如く、其転覆を免るゝ能はさること言を待たさるなり。然らは、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや、蓋し絶対無限者によるの外ある能はさるべし。此の如き無限者の吾人精神内にあるか、精神外にあるかは、吾人之を一偏に断言するの要を見す。何んとなれは彼の絶対無限者は、之を求むる人の之に接する所にあり、内とも限るへからす、外とも限るへからされはなり。吾人は只此の如き無限者に接せされは、処世に於ける完全なる立脚地ある能はさることを云ふのみ。而して此の如き立脚地を得たる精神の発達する条路、之を名けて精神主義と云ふ。
 精神主義は自家の精神内に充足を求むるものなり、故に外物を追ひ他人に従ひて、為に煩悶憂苦することなし。而して其或は外物を追ひ他人に従ふ形状あるも、決して自家の不足なるが為に追従するものたるべからず。精神主義を取るものにして、自ら不足を感ずることあらんか、其充足は之を絶対無限者に求むべくして、之を相対有限の人と物とに求むべからざるなり。
 然れども、精神主義は強ちに外物を排斥するものにあらず、若し外物に対して行動することある場合には、彼の外物の為に煩悶憂苦せざるのみならず、彼の外物は精神の模様に従ひ自由に之を変転せしめ得べきことを信ずるなり。故に、彼の『随其心浄則仏土浄』とは、是れ善く精神主義の外物に対する見地を表白したるものと云ふて可なり。
 又精神主義は、自家の精神を以て必要とするが故に、其外貌或は利己の一偏に僻し、他人を排斥するが如きものなきにあらず。然れども、精神主義は決して利己一偏を目的とするものにあらず、亦他人を蔑視するものにあらず。只自家の立脚をだも確めずして、先づ他人の立脚を確めんとするの不当なるを信し、自家の立脚だに確乎たらしむるを得は、以て之を人に移し得へきことを信し、勉めて自家の確立を先要とするが精神主義の取る所の順序なり。
 故に若し外物又は他人と交際して、自他の幸楽を増進することに至りては、精神主義は決して此事を排斥せず、寧ろ反て之を歓迎するなり。故に精神主義は決して隠遁主義にあらす、亦退嬰主義にもあらさるなり。協共和合によりて、社会国家の福祉を発達せしめんことは、寧ろ精神主義の奨励する所なり。
 精神主義は完全なる自由主義なり。若し其制限束縛せらるゝことあらは、是れ全く自限自縛たるべく、外他の人物の為に制限束縛せらるゝにあらさるべし。自己も完全なる自由を有し、他人も完全なる自由を有し、而して彼の自由と彼の自由と衝突することなきもの、是れ即ち精神主義の交際と云ふへきなり。
 而して通常の場合に於ては、彼の自由と我の自由と衝突なき能はさるか如きは何そや、他なし、此の如き自由は完全なる自由にあらさるか故に、完全なる服従と平行せざればなり。今精神主義によりて云ふ所の自由は、完全の自由なるか故に、如何なる場合に於ても、常に絶対的服従と平行するを以て、自由に自家の主張を変更して他人の自由に調和することを得て、決して彼の自由と衝突することあらさるなり。
 然るに此の如き服従の場合に於て、最も注意すへき所の要件あり、煩悶憂苦の有無即ち是なり。此点に就ては精神主義に一種の要義あり、他にあらす、精神主義は総ての煩悶憂苦を以て、全く各人自己の妄念より生する幻影と信するにあり。乃ち、精神主義よりして之を云へは、我は外他の人物を苦むること能はさると同しく、外他の人物は我を苦むること能はさるなり。故に或は外他の人物の動作によりて我が苦悩するか如きことあるあるも、精神主義よりして之を云へは、是れ我が吾妄想の為に苦悩するものとし、決して外他人物の為に苦悩するものとせさるなり。(之に反する場合も推して知るべし。)而して此の如き苦悩は、畢竟妄念より生する幻影に過ぎざるか故に、精神主義の実行が進歩するに従ひ、吾人の立脚地の益明確となると共に、彼の苦悩は漸次に減退消散するものたるなり。
 之を要するに、精神主義は、吾人の世に処するの実行主義にして、其第一義は、充分なる満足の精神内に求め得べきことを信するにあり。而して其発動する所は、外物他人に追従して苦悶せざるにあり。交際協和して人生の幸楽を増進するにあり、完全なる自由と絶対的服従とを双運して以て此間に於ける一切の苦患を払掃するに在り